【原発再稼働】国民は原発事故から逃れられない。そして傍観者ではありえない。

 昨日の毎日新聞のコラム「風知草」は、福井地裁の高浜原発再稼働居て市の仮処分について書かれています。
 その論は、「傍観者が原発を支える」とのタイトルであり、この裁判をして原発再稼働は止められないとの思いをにじませ、原発再稼働容認の本質は、「無意識に電気を浪費している1億人の傍観者である」と言い切っています。それは、原発再稼働の可否は、国民にあるとの論の展開のようです。
 確かに、国民が原発再稼働の問題を傍観してはならないと考えます。しかし、コラムの最後に「そもそも、原発再稼働を高唱する資格は、自宅に核廃棄物を受け入れる人間にしかない。再稼働の判断を専門家、政府、裁判官に任せて顧みぬ無責任をかみしめるべきである」とはすこし違うように思えるのです。
 それは、国民の世論の盛り上がりこそが原発再稼働問題の一番の解決策であるものの、過去の経緯は、政府や電力会社に都合の良い広報活動で成り立っていると思われます。つまり、国民の責任論は性急ではないかと思うのです。
 本当に国民は傍観者なのでしょうか。原発事故を考えれば、国民が傍観者ではあり得ないことが明確ではないかと思えるのです。コラム子は、これからの裁判に悲観的なのかもしれません。だから、福井地裁の決定に満足してはいけないと言いたいのかもしれません。
 しかし、大上段に国民を傍観者とすることは納得いかないとここで申し上げたいのです。
風知草:傍観者が原発を支える=山田孝男
毎日新聞 2015年04月20日 東京朝刊
 福井地裁が、関西電力高浜原発の再稼働を認めぬ仮処分を決定した。
 行政が認めた再稼働をきっぱり否定した。それで大ニュースになったが、原発訴訟の底流を変える出来事だとは思わない。
 社会の深層の変化を阻むものは「保守反動、原子力村べったりの裁判官」ではない。無意識に電気を浪費して原発を支える1億人の傍観者である。
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 原発訴訟で裁判官が判断を下す場合、踏まえるべきお手本がある。四国電力伊方原発(愛媛県伊方町)訴訟の最高裁判決(1992年10月)である。
 こう書いてある。
 安全基準が適切かどうかは「科学的、専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的な判断にゆだねる」べきであり、判断過程に「看過し難い過誤、欠落」がある場合のみ違法−−。
 つまり、「政府が専門家にちゃんと聞いて決めたことに対し、専門家ならぬ裁判所はとやかく言えぬ」ということである。
 3・11以前はこれがすべて。運転差し止め訴訟は原告住民が常に負けた(まれに地裁で勝っても、高裁で覆された)。
 大震災と原発事故で「専門家の知見」も「政府の判断」もアテにはならぬと分かり、裁判官の間に痛切な反省が広がった。
 だが、「水戸御老公の印籠(いんろう)(最高裁判決)」が砕けたわけではない。
 「もはや政府の安全規制体制は一新されたので大丈夫」という建前を受け入れつつ、「でもなあ」と首をかしげている裁判官が多いのではないか。
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 高浜原発の再稼働に「待った」をかけた裁判長は昨年5月、関電大飯(おおい)原発の運転差し止め判決を出したのと同じ人である。
 大飯判決は非凡なタンカで話題になった。
 「多くの人の生存に関わる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じることは許されない」
 「(統計値ではなく)豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富である」
 まったくその通りだと私は思うが、そういう考えが他へ波及する手応えは、いまのところ薄い。
 同じ裁判長が同じ考えを示した。しかも最高裁判決を顧みず、専門家でもないのに規制基準の中身へ踏み込んで意見を述べた。喝采も博したが、激しい批判も噴き出している。
 仮処分は即時発効、関電の不服申し立てで法廷闘争が続く。福井県に集中する原発(13基。すべて運転停止中)は当分動かない。関電の経営は圧迫され、原発景気に期待をつなぐ県内の自治体も苦しい。
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 行政が再稼働へゴーサインを出した原発が、もう一つある。九州電力川内(せんだい)原発である。その運転差し止めの仮処分申請に対する決定が今週22日、鹿児島地裁で言い渡される。
 福井地裁の決定が一陣の風で終わるか、鹿児島が共振して時代が動くか、注目の節目になる。
 人工衛星から夜の地球を見れば、日本は不夜城という。電力は過疎地の原発でつくられ、大都会で大量に消費される。原発がなければ、24時間光り輝く東京はない。4年前、停電の中で誰もが気づいた構造も今は忘れ去られている。
 そもそも、原発再稼働を高唱する資格は、自宅に核廃棄物を受け入れる人間にしかない。再稼働の判断を専門家、政府、裁判官に任せて顧みぬ無責任をかみしめるべきである。=毎週月曜日に掲載