これは備忘録として載せておきたいと思っています。
ある意図をもって行動するものの事の本質は変わらない。翻ってすべて自分自身だけが正しいと上から目線でいるとすれば多くを騙すことは難しい。不安あおる言辞やレッテル貼りときれいごとのパフォーマンスに長けているのに事の原点が違っていることが分らない悲しさを見る思いです。
産経新聞1月16日付けの記事です。
「天皇」と呼び捨てで開会式に出席する共産党 「人間として当たり前」って…
永田町で取材をしていると、「常識とはなんぞや」と感じることが多い。今年も最初からその連続だった。
正月気分も抜けない1月4日、早々と通常国会が召集された。天皇陛下をお迎えして参院本会議場で行われる開会式に、共産党の志位和夫委員長ら幹部6人が出席した。共産党議員の開会式出席は昭和22年以来で、約69年ぶりとなった。本会議場の志位氏らは天皇陛下をお迎えする際に起立し、頭を下げ、他党の議員と同様の振る舞いだった。
国会議員が開会式に出席するのは「当たり前だ」と思っていた。だが、少なくとも共産党にとっては常識でなかった。いわく、天皇陛下のお言葉には政治的な発言が含まれ、「高い玉座からお言葉を賜る」(志位氏)という形式に反対だったからだという。
ところが今回、天皇陛下のお言葉が「ここ三十数年は儀礼的、形式的な発言が慣例として定着した」(志位氏)と判断し、方針を転換した。ならば昨年から出席してもよかったのに、なぜ今年からなのか。安全保障関連法の廃止を目指す野党連立政権「国民連合政府」構想を提唱する共産党にとって、他党の「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるのは明らかだ。
志位氏は開会式後の記者会見で「私たちは一貫している。現行憲法の国民主権、主権在民、そして天皇の制度については国政に関する権能を有さないという制限条項を厳格に守ろうと。この1点でこれまでも対応してきたし、これからも対応する。変わらない」と説明した。「なぜ今回からなのか」の説明になっていないが、開会式での所作に関する次の言葉にはもっと驚いた。
「衆院議長にしろ、天皇にしろ、礼をしたときに私たちも礼をした。人間として当たり前だ」
礼をするのが当たり前ならば、公の場で天皇陛下を「天皇」と呼ばないことも当たり前ではないか。呼び捨てにする感覚は、少なくとも私にはない。志位氏が「厳格な順守」を訴える憲法の第1条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。天皇陛下を尊重しない姿勢は国民をないがしろにすることにつながり、憲法の精神にもとる。このことからしても志位氏の言うところの「当たり前」を共有できない。
さらに驚くべきことは2日後に起こった。北朝鮮の核実験への反応だ。安倍晋三首相のみならず、民主党の岡田克也代表も、維新の党の松野頼久代表も、一様に「重大な脅威」との表現を使って北朝鮮を厳しく非難した。
しかし、志位氏が6日に出した談話は、「暴挙」や「糾弾」などの表現はあったが、「脅威」という文言はなかった。紙で出した談話では言葉足らずだったのかもしれない。しかし、穀田恵二国対委員長も6日の記者会見で「脅威」との言葉を使わず、「けしからん話だ」と述べるにとどまった。
それもそのはず。志位氏は昨年11月のテレビ東京番組で、安保関連法を批判する文脈で「アフガニスタン、IS(イスラム教スンニ派過激組織『イスラム国』)、南スーダンのPKO(国連平和維持活動)の任務の拡大に実際は危ないところがある。北朝鮮の問題、中国の問題にリアルの危険があるのではない」と述べていた。
いくら安保関連法を「戦争法」と呼んで批判しているとはいえ、一般論として北朝鮮に脅威がないと本当に認識しているのだろうか。そんな認識の政党が「国民連合政府」を樹立しようとしているわけだ。
共産党幹部で最初に「脅威」に言及したのは小池晃政策委員長で、8日の記者会見で「この地域と世界の平和と安定に対する重大な脅威だ」と述べた。たったそれだけのことを表明するのに2日間も要したのが共産党だということがよく分かった。(政治部 酒井充)