【トイレなき原発】「民をどう恐るのか」この政治の感度を高めて、オピニオンが成立する。

 本日付の毎日新聞コラム特別編集委員倉重篤郎氏「水説」は、小泉純一郎元首相の原発ゼロ発言の分析として納得するものがありました。
 コラムは、「民をどう恐れるか」と題されており、小泉元首相の機を見るに敏な、そして国民にわかりやすく訴えるツボを言い表しています。3.11を経て、確実に変化した「民」の心を、小泉元首相持ち前のワンイシューで提示しており、「トイレなきマンション」を、3.11前後で、「トイレ探し」「トイレ作り」の是非や可能性を無理と決定づけたというものです。
 以下は、コムラの一部です。
 それにしてもなぜ小泉発言が人心に響くのか。推進派はそこを分析すべきだ。一つはそのわかりやすさにある。使用済み核燃料の最終処分場がいまだに確保されていない中でゴミを出し続ける矛盾、いわゆるトイレのないマンション問題の告発である。
 このこと自体は、目新しいことではない。原発推進派の一番の泣きどころであり、脱原発派の最大の攻めどころであり続けてきたからだ。ポイントはその次、「3・11」原発事故による民意の変化を政治家としてどう読むか、にある。
 「3・11」後もこれまで同様トイレ探しに全力を尽くす、というのが推進派だ。一方、小泉氏は「3・11」ゆえにトイレ探しが不可能になった、というのだ。なぜならば、トイレ作りには国民世論の支持、地域住民の同意が必須だが、「3・11」前ですら困難だったこの政治手続きは「3・11」後は絶望と見るべきだからだ。小泉氏一流の政治リアリズムである。
 この差は、小さいようで大きい。一言でいえば、民をどう恐れるか、という政治家の感度にかかわる問題だ。振り返れば、2005年小泉政権時代にこんなことがあった。政府部内で沖縄・普天間飛行場の移設先を議論した際、大規模な埋め立て工事を伴う浅瀬設置案と、埋め立て部分を極力縮める沿岸設置案との二つにしぼられた段階で、小泉氏は後者に断を下した。同じ地元でも埋め立てに期待する業者よりも、埋め立てに反対する環境団体を恐れたのである。「環境派を相手に戦ってはダメだ。それほど住民運動は怖いんだ」。小泉氏が自らの地元の池子弾薬庫跡地問題の例を挙げてこう語ったことを当時の守屋武昌防衛事務次官が著書「『普天間』交渉秘録」で明かしている。
 これが小泉流ポピュリズム政治のキモである。だから俺は5年半続いたんだよ。そう安倍晋三首相に言いたいのではないか。(専門編集委員)