【幸福追求】庶民の現場を歩く。縦割りでなくチームワーク。ここに幸福追求の黄金の道がある。

今朝の毎日新聞二面「時代の風」、元世界銀行副総裁に清水美恵子氏のコラム「憲法に幸福追求の権利」を興味深く読みました。
ブータン前国王雷龍王が言われた「国民総生産量より国民総幸福量の方が大切だ」を引用して、数値理論のある生産量と心理的要因の強い幸福量の違いを丁寧に説明されながら、ブータン国王が示した国民総幸福量という価値観もブータンの安全保障戦略であるつ記しています。
そして、ブータン国王の政治哲学は、「政策と公共機関の使命を、民の幸福追求を妨げる公的障害を取り除くもの」として、二つの価値観があるとしています。
1つは、公務を公僕として仕える庶民の目を通して見る。それは、国王自身が全国各地をくまなく歩くことだと。
2つは、縦割りではないこと。それは、チームワークをとことん重んじることだと。
そして、このコラムは、日本国憲法の「幸福追求権」(13条)を引いて、日本の政治のあり方を問うとしています。
「政治の目的は何か、その手段は何か」を問い、実践していく事の重さを、昨日、大先輩からお聞きしました。それだけに感じるものがあります。
時代の風:憲法に幸福追求の権利=元世界銀行副総裁・西水美恵子
毎日新聞 2014年08月24日 東京朝刊
 ◇日本、ブータンとの差は
 初夏の数日間、ブータンのトブゲイ首相が初めて公式に日本を訪問した際、「国民総幸福量」がメディアをにぎわした。日本ほどこのトピックが庶民の関心事になる国を、私は他に知らない。なぜだろうと、思いをめぐらしている。
 前国王の雷龍王4世が、即位(1972年)後初の海外メディアインタビューで「国民総生産量より国民総幸福量のほうが大切だ」と語呂合わせをした。以来名称は定着したが、数値を連想させるせいか、その真意は広く知られていない。
 実際、国際機構や、世界各国の官民研究機関が、いろいろな手法を用いて国民の幸福度を推測し、国際比較もはやっている。が、国民の幸福度をおおよそでも捉えているのかと心配するのは、私だけだろうか。
 専門的な話にするつもりは毛頭ないが、国家経済の総生産量を測る場合は、生産と投入(労働、資本など)の関係を表す生産関数が理論的な足場となる。国民の幸福度を測る場合、そのような土台はどこにあるのだろう。幸福の心理構造に関する理論的根拠は経済学の域を超えるから、不勉強なエコノミストの私には見当もつかない。
 心理学や脳科学の専門家によると、幸福の心理は人によって異なると考えるのが妥当らしい。だとすると、たとえ個人の幸福度を測れても、国民総幸福度の合計はできない。異質なものの足し算は、不可能。国民総生産のように、市場価格がリンゴとバナナの足し算を可能にするというわけにはいかないのだ。
 理論的な骨組みがしっかりしていないと、データは真実を語らない。その上、結果の是非がどうあれ、数字は必ずものを言う。ピーター・ドラッカーが「計測されるものは管理される」と諭したそうだが、しかり。国民の幸福を無理に数値化して間違った指標が管理されると、政策に悪影響を及ぼすリスクが生じる。用心に越したことはない。
 国民総幸福量は価値観。あの国の王家に代々伝わる政治哲学である。ブータンの国民総生産量に関する質問に「国民総幸福量のほうが大切だ」と答えた4世の真意は、国家安全保障戦略にあった。インドと中国に挟まれる人口70万人ほどの小国を守るのは「ブータンに生まれて本当によかった!」と本気で言える人心のみと、考えるからだ。
 小国にふさわしい武力抜きの戦略と言えばそれまでだろう。が、日本史に残る武神・武田信玄の戦略「勝利の礎」(「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」)と同質の思考だ。国王直筆の勅令には「ブータンの外垣も国富も同じく国民である」と、幾度も繰り返されている。
 具体的に、この政治哲学は、政策と公共機関の使命を、民の幸福追求を妨げる公的障害を取り除くことに置く。幸せも、それを邪魔するものも、万物にたがわず流転する。ゆえに国王は、政治家と公務員に、政策と公共機関の持続的進化を導く価値観を求めた。もろもろあるうち、特に二つの価値観が重視されている。
 一つは、社会問題と自らの公務を、権力や特権を持つ者の目線からではなく、公僕として仕える庶民の目を通して見ること。問題やその神髄が見え難い「上から目線」はご法度。国王自ら全国各地をくまなく歩き回るロールモデルで、「草の根から遠い政治はすなわち悪政」と、早くから地方分権を推進してきた。
 もう一つは、常に包括的な観点で公務に臨むこと。ロールモデルの口癖は「幸せは本来包括的なものだ。日常生活の現実も、民の幸福も、省局など政府組織の境界線に都合良く収まりなどしない」。むろん「縦割り」は禁物、チームワークをとことん重んじる。
 ブータンは桃源郷ではない。間違いも多く、実践は終わりのない学習の道だ。今は、新国王雷龍王5世のリーダーシップのもとで、哲学・国民総幸福量を黙々と追求し続けている。
 日本国憲法は「幸福追求」を生命と自由と共に国民の基本的人権と見なし、「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とうたう(第3章13条)。
 ブータンという国を知ってから、日本政府は本気で憲法を守っているのかと疑うようになった。ひょっとすると、わが同胞の鋭敏な直感が、「国民総幸福量」に私と同じ渇望を覚えるのかもしれない……。