【楕円の哲学】二つの中心が均衡を保ちながら円を描く、大平元首相の生き方

 毎日新聞の特集(8月14日付東京版夕刊)に掲載された大平正芳元首相のの哲学とも言えるバランス感覚を「楕円の哲学」に興味を覚えました。
 二つの中心が均衡を保ちながら緊張感を持った関係にあることを指すようです。現在の自民党には、タカ派とハト派というバランスやスウィングする機能に欠けているとの指摘もあります。
 単眼的でなく複眼的に柔軟な視点と思考から、適確な政治的な決定もなされるべきでしょう。いまやレッテル貼りのような言辞がハバを利かすようではいけないと思います。
 そんな思いをもって読んだコラムです。
特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/5 「楕円の哲学」でバランス重視 元首相・大平正芳さん
毎日新聞 2015年08月14日 東京夕刊
◇止まらない政治の劣化 元首相・大平正芳さん(1980年死去、享年70)
 政治は全ての国民が参加するコーラスで、首相の役割は指揮者のようにハーモニーの維持に努めること−−。こう位置づけた、この国のリーダーがいた。大平正芳さん。自民党政権で第68、69代首相となった人だ。スマートとはいえない容姿から「鈍牛」とからかわれ、演説や答弁はしばしば「アーウー」と途切れ、その様は、物まねにもされた。
 1980年の衆参ダブル選挙公示直後に心筋梗塞(こうそく)で急逝した。任期は約1年半と短く、首相として果たした仕事の印象は薄い。それなのに戦後70年の今、大平さんが唱えた独自の理念が注目されている。「楕円(だえん)の哲学」と呼ばれるものだ。
 この言葉を大平さんはいつごろから使い出したのか。
 作家の辻井喬さん(2013年死去)が著した小説「茜(あかね)色の空 哲人政治家・大平正芳の生涯」に答えがあった。大蔵省(当時)に入った大平さんが、横浜税務署長として新年のあいさつをした時のことが描かれているシーンがある。27歳の時だった。
 <行政には楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちながら緊張した関係にある場合、その行政は立派といえる>
 この言葉は、課税者と納税者という二つの中心があり、行政としては、強権的な課税も、納税者に迎合した課税も共に排し、いずれにも偏らない「中正」の立場が必要である、との意味だという。そして政治家に転じ、戦後日本で民主政治が定着していく中で、「楕円の哲学」を、バランスと合意重視の政治手法につなげていった。
 このような政治手法が注目されているのは、官邸に対する異論を認めない空気がまん延しているからでもある。自民党内にもかつてのようにタカ派とハト派がバランスを取る動きは見られない。安倍晋三首相にモノ申す自民党議員が数少ない中、大平さんが会長を務めた派閥「宏池会」の古賀誠名誉会長(75)=元自民党幹事長=が語る。
 「例えば安全保障関連法案では、党内で議論を積み上げる従来の手続きが欠如しています。そもそも米国の一極覇権があり得ない現状で、日本を取り巻く環境が変わっています。その中でいかに平和を維持していくのかを考えると、日米同盟を基軸とした上で、アジア圏というもう一つの円を作っていくべきなのです。今こそ、大平さんの理念を見習うべきです」
 その理念に共感する同党の若手議員もいる。武井俊輔衆院議員(40)。自民党ハト派の勉強会と位置づけられる「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」の共同代表世話人を務めている。「保守とは漠とした概念で、多くの人々がそれぞれの考え方を持ち、その多様性を認めていくものだと思います。大平さんが亡くなった時は私は5歳だったので、記憶にはありません。しかし、『楕円の哲学』の理念は今の時代に必要なのではないでしょうか」
 「楕円の哲学」は、「大平の真骨頂」と言われる外交でいかんなく発揮された。
 大平さんは池田勇人内閣と田中角栄内閣で外相を計2回、4年間務めた。専任としては戦後最も長い外相だ。
 池田内閣では62年に総額6億ドルを日本が韓国に提供する合意を成立させ、日韓交渉の糸口をつかんだ。田中内閣では、72年に周恩来首相らとの協議で日中国交正常化を果たした。国内は外交の成果に沸いたが、この時、大平さんは冷静だった。
 大平さんの娘婿で首相秘書官を務めた森田一・元運輸相(81)は証言する。「中国からの帰りの飛行機の中で大平が『今はこれで良かったけど、30年後は大変だよ』と話していました。今では中国、韓国も力を付けてきました。確かに相手国との関係は当時より大変になっていますから」。常に先を見ていた。
 そして米国、中国、韓国など特定の国との関係を強化するだけではなく、大平さんは太平洋の国と地域が緩やかに連携する「環太平洋連帯構想」の必要性も説き、経済、食糧、文化など非軍事の要素も活用して平和を維持する「総合安全保障」を掲げた。この構想は、現在のアジア太平洋経済協力会議(APEC)の源流となる。
 グローバルな視点は、首相に就任した直後にもうかがえる。
 <六さん、これからは二人とも地球儀を頭に置き、腹につめていこうぜ>
 官房長官を務めた田中六助さん(85年死去)が著書「大平正芳の人と政治」の中で<感動が体の中を走った>と記した。前出の森田さんも「『僕はアーウーの大平と言われるけど、一言話す前に、日本のみならず世界各国、特にアフリカ諸国のことまで考えて発言しているんだ』と話していました」と明かす。「大平外交」の基本は対米、対中と個別に分けるよりも、すべてが連関する総体的な観点から理解しようとするものだった。その下地は豊富な読書量に基づく深くて広い教養だ。約8000冊の蔵書があり、西洋思想や東洋思想までさかのぼって交渉相手の思考回路や行動規範などを熟知していた。
 今、中国、韓国との関係は冷え込んでいるが、大平さんならどんな対応をするだろうか。
 アジア問題に詳しい日本総合研究所の寺島実郎理事長(68)を訪ねた。三井物産の若手社員だった30代前半、お互いの自宅近くにあった東京・二子玉川の本屋で大平さんとよく出会い、経済問題などについて語り合ったという。「休日に着物姿で来て、本を一生懸命あさっていましたよ。新しい時代のものの見方や考え方、価値観みたいなものを吸収しようとする問題意識の高い政治家でしたね」
 寺島さんがこだわるのはリーダーが持つ世界観だ。「今、悲劇的なのは日本のかじ取りをする人たちのあまりの思索の浅さ、あきれるほど単純で薄っぺらい世界観」と切り捨てる。その事例は、6月にドイツであった主要7カ国首脳会議(G7サミット)で見られたという。
 「会議で『中国は危険です』と言い続けるだけの日本の悲しさです。アジアで唯一、G7に出ている国なのだから、アジアの状況を踏まえた上で、どのような秩序を作っていくか語るべきでした。大平さんと僕の問題意識は共通しています。大平さんならば敵対するのではなくて、影響を受けながらも自立自尊の態度でアジアと共生できるシナリオを描いていくでしょう」
 ◇共に歩む国民を信頼
 大平さんが後悔していたことの一つが、蔵相時代に赤字国債を本格的に発行したことだった。当時、経済は第1次石油ショックで疲弊していた。「子孫に赤字国債のツケを回してはいけない」と、何十回も省議を開いたが、赤字国債を発行せざるを得ない状況に追い込まれた。「大平は、生涯をかけても、財政再建に取り組もうとしていました」と森田さん。赤字国債の発行を恒久法にせず、毎年、国会承認を得る特例法にしたのも大平さんのこだわりだった。
 だからこそ、首相に就任すると、財政再建を図るために79年、一般消費税の導入を訴えた。国民に負担を強いる不人気な政策。当然、野党はもとより、党内からも猛反発が起きる。同年の総選挙で惨敗した。
 森田さんは「大平は正直というか、真面目すぎる面があって、表面だけを取り繕うようなパフォーマンスは嫌いでしたね」と話す。だから政権が安定しなかったのでは? そんな問いに森田さんは苦笑しながら答える。「そうそう。実際の政治と、大平の哲学とは矛盾する点が少なくない。総理までやったけど、自分は政治家になって良かったのかという悩みが常にあった。だから長生きができなかった面があったのではないでしょうか」
 大平さんを突き動かしたものは何だったのだろう。「大平正芳 『戦後保守』とは何か」の著書がある福永文夫独協大法学部教授は、大平さんの次のような言葉を挙げた。
 「政府が引っ張っていって、それに唯々諾々とついていくような国民は、たいしたことを成し遂げられない。政府に不満を持ち、抵抗する民族であって、はじめて本当に政府と一緒に苦労して、次の時代をつくれる」
 福永さんが解説する。「大平さんの思いの根底には国民への信頼があり、国づくりでは共に歩もうとしたのだと思います。だから権力の行使には極めて抑制的であり、懐疑的でした」
 また、戦争体験者が減ると、国家主義的な考え方が広がり、平和・協調路線のリベラル的な考え方が受け入れられなくなると懸念していた。「それでも」と森田さんが語る。「戦争体験者が減っても、『楕円の哲学』があれば、リベラル的な考えの核となるものだと思います」
 大平さんの理念は、21世紀の日本に残してくれた遺言にも思えてくる。【石塚孝志】=つづく
==============
 ■人物略歴
 ◇おおひら・まさよし
 1910年生まれ、香川県出身。農家の三男から苦学して高松高商、東京商科大(現一橋大)を卒業し大蔵省入省。52年に衆院議員初当選。外相、蔵相、自民党幹事長などを歴任、78年に首相就任。高松高商時代にクリスチャンとなった。文筆家としても知られる。