【戦後70年】戦後を戦前と比較。そして、失ったことと得たものを再考し、新しい戦後の価値を創造。

 劇作家である山崎正和氏のインタビューが公明新聞に掲載されました。
 戦後70年を 『“光と影”と未来への選択』と捉え、終戦直後の実感を実体験として再確認して、戦後を戦前との比較の中で俯瞰する見方は山崎氏らしい視点の開陳のように感じます。
 以下は、公明新聞:2015年8月14日(金)付の記事です。私の備忘のためにもここに掲載します。
「やっと人間らしく生きられる」
自由…何ものにも代え難く
劇作家 山崎 正和氏に聞く
 今年2015年は戦後70年の節目の年に当たる。この間、世界と日本はどう変わり、どう変わらなかったのか。そして、私たちは今、どのような地平に立ち、どこへ向かおうとしているのか。70回目を迎えるあす8月15日の「終戦記念日」を前に、劇作家の山崎正和氏に“来し方70年”を振り返ってもらうとともに、“次の70年”に向けて日本と日本人が取るべき選択について聞いた。
 満州・奉天で迎えた8月15日
 「これで助かる」「やっと人間らしく生きられる」―。これが終戦直後、観念でも何でもなく、実感そのものとして私が抱いた思いだった。と言っても、当時はまだ小学6年生。何も高邁な反戦思想からそう感じたわけではない。至って単純な理由からだった。
 戦時中、私は両親とともに中国・満州の奉天で暮らしていた。しかし、当時の私は体が弱く、それだけで周囲から非国民扱いされていた。「体の弱い奴は将来、兵隊として役に立たない。そんな奴はいじめてしまえ」と。実際、学校では毎日のように上級生に殴られ、先生に訴えにいくとまた殴られたものだ。「おまえの方が悪い」と(笑い)。
 つまり、私は現代のいじめられっ子の典型だったわけで、いわば「強いられた反軍国主義者」だった。だから、もう殴られることがなくなり、あの辛い防空壕掘りや軍事訓練もなくなるということで、終戦という出来事は本当にうれしかった。
 無論、実際には、軍国主義による異常な状態は容易に解消されず、苦しい日々はなお続いた。「居留民団立」となった中学校では、上級生が下級生を殴るという習慣がまだ残っていて、敗戦の責任を問われて随分殴られもした。「なぜ負けたか」「向こうが強かったからです」。それでポカンとやられる。で、「私たちの努力が足りませんでした」と答えると、今度は「その通り」と言われてまた殴られる。そんな具合だった。
 だが、満州が中国国民党軍の支配下に入ると、教育内容が変わり、結果的に大変な英才教育を受けることができた。やがて共産党軍が奉天を包囲して陥落すると、私たち満州居留民は国民党の高級幹部と一緒に飛行機で北京へ逃げたが、そこで抑留されるということも体験した。日本へ帰ってきてからもいろいろあった。食糧難も経験したし、父親を満州で失っているので、母子家庭として生活保護を受けるような身分でもあった。
 でも、ともかくも日本の学校に入って、初めて味わった自由への喜びは何ものにも代え難かった。それに、世の中があそこまで貧しいと、かえって人間は功利的でなくなるようで、私も自分の好きなことをやりたいと思うようになったし、実際にそうした。
 左翼運動に身を投じ、高校生にして共産党員になったりもした。その過程で共産党内部の醜さというものを嫌というほど体験し、いわゆる「転向」をしたのも、今思えば無駄な経験ではなかったと思っている。面白そうだという理由だけで京都大学文学部に進み、全く功利的でない哲学や美学を学んだのも、どうやら間違っていなかったようだ。
 このように、私にとっての戦後はいくつかの層をなしているのだが、総じて言えば、大変に幸せで明るい時代だった。心からそう思っている。
 日本が本来の姿に戻った時代
 何を得て何を失ったのか
 《戦後》とは
 劇作家 山崎 正和氏それにしても、<戦後>とはどういう時代であり、私たちはこの<70年の歩み>をどう評価すべきなのだろうか。
 言うまでもなく、戦後とは一つの時代区分であり、そうである以上、どのような物差しで区分するかが重要になる。哲学でいう「解釈学的循環」の手法であり、部分を全体の中に位置付ける作業が求められる。
 今、戦後とは何かを問う時、その物差しは<戦前>であることは言うまでもない。問題は、その戦前をどこに置くかにある。
 仮に、戦前を軍部による独裁時期と捉えるなら、それは満州事変以後に限られる。従って、軍部が暴走し、やがて国民全体もあたかも狂ったかのように玉砕したり、特攻を行ったりした時期は意外と短かったことに気付くだろう。
 この点は誤解されがちで、それは<戦前>にはもう一つ、“狭義の戦前”としての軍部独裁時期とは異なる“広義の戦前”もあるからだ。そこでは大正デモクラシーの名残である昭和デモクラシーがしっかりと残り、市民の生活感覚の中にもかなりリベラルな雰囲気が息づいていた。
 とても象徴的ではっきりと覚えているのは、絵葉書かポスターに、母親と子どもが手をつないで立ち、向こうに戦争の煙が上がっている光景が描かれていたことだ。そこには台詞もあって、「ママ。パパはきょうも支那兵を殺しているの?」と書かれていた。混乱もいいところで、中国兵をやっつけるという軍国主義と、パパ、ママという甘ったるい英語がそこに同居していた。もっと象徴的なのは、戦前の経済のピークが1937(昭和12)年だったことだ。大戦勃発4年前のこの年、大卒生は完全就職できたという。
 繰り返して確認するが、純粋な意味での戦前は実に短期間だった。実際に戦争があった4年間と、これに『経済白書』が「戦後は終わった」と書いた1955年までの戦後10年を加えても、苦難の時期は20年あるかないかだ。この間の悲劇は確かに特筆ものだが、それも単なる挿話にすぎなかったと見ることができるのである。
 裏返して言うなら、戦後70年とは日本が本来の姿に戻った時代ということだ。何も米国に無理矢理変えられたわけでもなければ、日本人が嫌々従った体制でもないということだ。
 況んや私のように、いわゆる「近代」の始まりを、“柔らかい個人主義”の誕生や都市化の芽生えがあった室町時代後期と見ている人間からすれば、戦後を特徴づけるさまざまな要素―平和主義や象徴天皇制、都市文化の成熟など―も、結局は室町期いらい、ずっとこの国で息づいてきたもの以上のものには見えないのである。
 人類初のイデオロギー戦争 敗戦国に道義的責任
 《大戦》再考
 第二次世界大戦が人類史の中で極めて異様な戦争だったという時、それは二つの意味を指している。
 一つは総力戦だったということ。軍人と国民との区別なしに、国民同士が敵になった。第一次大戦時にはまだ残っていた「民間人と軍人の区別」という思想を丸ごと否定して、日本も米国もイギリスもドイツも無差別爆撃を行った。
 もう一つの特色は、大抵は国益のための戦いだったそれまでの戦争と異なり、人類最初の本格的なイデオロギー戦争だったことだ。従って、戦争が終わると、国境を引き直して賠償金を払ってお終いとはならなかった。民主主義や人権を「建て前」とする連合国と、それに対抗して帝国主義的独裁制を奉じる枢軸国が思想を掲げて戦った。その結果、敗れた日本やドイツは国益を失うだけにとどまらず、道義的責任も負うことになった。この点で、第二次世界大戦は非常に不思議な戦争だったというほかない。
 ただし、歴史というのは複雑で、連合国側も大戦時、過失を犯していた。そのイデオロギーに反して、専制国家の権化たるスターリンのソ連を味方にしたことだ。この矛盾は終戦後、米ソ対立、東西冷戦としてただちに表面化した。ヨーロッパではソ連によるベルリン封鎖が起こり、アジアでも朝鮮戦争が勃発した。
 冷戦のおかげで日本が免罪符を手にしたことも歴史の皮肉というほかない。朝鮮戦争による「特需」で儲けるだけ儲けさせてくれただけでなく、イデオロギー戦争における道義的責任も先送りされた。早い話、西側陣営だった韓国は、反日感情があっても表に出せなかった。かくして西側諸国との単独講和がなり、日米安保条約も結んで、日本は過去の「清算」に成功した。
 ところが90年代、この構造が大きく変化する。戦後という時代の、一種の中折れ現象が起きたのだ。
 一つは東西対立が終わったこと。日本人の多くはこれを無邪気に喜んだが、冷戦終結とは「戦後」の一部の揺り戻しを意味していることを忘れていた。事実、韓国と中国が一緒になって日本の戦争責任を改めて追及しだし、近くは安倍首相が靖国神社に参拝した時、米国でさえ「失望」を表明した。あの時に米韓中が日本に対して攻撃した構図は、まさに戦中ないし終戦直後の構図の復活だった。
 構造変化はもう一つ、経済面でも起きた。80年代後半から世界を席巻し始めたグローバル経済の潮流が、経済活動の基盤を「ものづくり」から「金融」へと転換していったことだ。こうなると、日本人の特性である律儀さが、ある意味、邪魔になる。律儀さは、ものを作る時には非常に有効だが、博打には向かないからだ。金融経済というのは、経済学者がどんなに美化しても博打の要素があるわけで、律儀な日本人に向かないのは当然だろう。「失われた20年」は、日本人の律儀さが仇となったと言えなくもない。
 法的合理性確保した安保法制
 “次の70年”に向けて
 2015年の位相
 では戦後70年の節目を迎えた今、私たちはどのような位置に立っているのだろう。結論を先に言うなら、今は戦後の中折れ現象の終わりの時期にあると思う。
 まず、戦争責任にかかわる問題では、自民、公明両党による今の安保法制改革がある。最終決着したわけではないが、この改革で少なくとも米国が納得し、日本を信頼し直した。根本的なレベルで、戦争直後体制・敗戦体制が復活する可能性を防いだ意義は、どれだけ強調しても強調しすぎることはあるまい。法的合理性を確保しつつ、「平和法案」としてまとめ上げた公明党の努力を私が高く評価するゆえんがここにある。
 ものづくり経済の新展開に注目
 経済については、「ものづくりから金融へ」の流れは当分続くだろうが、そう悲観する必要はない。どんな時代になっても経済の基本は、やはり「ものづくり」にあるのであって、株への投資などはあくまでその反映にすぎないからだ。今後のあり方としては、ものづくりの精神を堅持しつつ、それに付加価値をつける方法を考えるべきだろう。
 幸い、付加価値の一つであるデザインでは、アニメなど「カワイイ文化」が世界に受け入れられている。また、東南アジアや中国に進出した日系企業が、<整理・整頓・清潔>という日本発の「3S」を現地工場に浸透させてもいる。そこに日本人の律儀精神の普遍化を見るのは、私一人ではないはずだ。
 安定した平和国家へ 拙速を排して一歩ずつ
 寡民小国
 “次の70年”に向けて私が描く日本の将来像は、人口が1億ないし9000万人くらいの「寡民小国」だ。人口1億は小さくはないが、言いたいことは「小さいところで安定する」ということ。経済大国として2番目だとか3番目だとか、そのような変なメンツは捨てて、国民が安定してクリエイティブに個性的に暮らせる平和な国であってほしいと願う。
 そのためにも重要なのは、何事に付けて拙速を求めないことだろう。一歩ずつ進歩はするが、慌てはしない。私は、そうした行き方こそが日本の本来の保守主義だと思っている。そもそも戦後70年目の日本は、そう悪くないはずだ。格差はあるが、米国や中国ほど極端ではないし、治安もいい。急な変化や大きな冒険物語を求めるのではなく、いい意味で「守る努力」をこそするべきだろう。
 これから否応なく起こる気候変動と人口減少という二つの荒波に対しても、地道な科学的解決を探求するほかないのであって、ばっさりと切れるような天下の名刀はない。「騙し騙しやる」のみだ。
 戦争責任への「謝罪」不可欠
 戦争・戦後責任についても同様だろう。現代世界を規定する「政治の正義」と、学問が追究する「歴史の真実」とをきちんと立て分け、70年前に軍国日本が犯した「まぎれもない犯罪」を、この国の継承者として今に生きる私たちは謝らないといけない。その中で、戦後日本の平和追求の歩みを理解してもらう努力を粘り強く続けるほかにない。
 ついでながら、政治における知の復権、とりわけ議会の議論のありようにも、一言触れておきたい。予算委員会などの実況放送を見ていても型通りで、あれでは面白くないばかりか、議論が深まるはずはない。もっと多様なやりとりができないのか、ぜひとも研究してもらいたい。
 要は、政治家自身の質をどう磨くかで、そのために地方議員で次に国会に出る人を一年間留学させて国際感覚を磨かせるような方法もあっていいと思うのだが、どうだろう。
 絶妙の自公連立体制 一層の自己主張を期待
 「公明党」考
 公明党の今後に向けては、責任与党の立場を大切にしつつも、もう少し自己主張をしてほしいとも思っている。
 その意味で、参院の「1票の格差」問題で公明党が自民党と組まず、民主党と組んだのはよかった。是々非々までいくと野党だが、是が二つに非が一つくらいのスタンスを守られたらどうだろう。今回の安保法制論議に顕著な“自民党のたるみ”を思えば、なおさらそう願う。公明党を埋没させないことにも繋がるはずだ。
 興味深いのは、政教分離以降の公明党の基本政策が、ほとんど純粋な社会民主主義と言ってもいい内容である点だ。そのありようが、自民党の中の良質な社会民主主義的傾向を助長して、総体としての自民党を踏み外さないように牽制していることは間違いない。このことは、日本のために有益であるだけでなく、公明党自身のためにもよいことと思う。
 ともあれ、10余年を過ぎた自公連立という絶妙の組み合わせは、次の70年までとは言わないまでも、可能な限り続いてほしいと願っている。
 やまざき まさかず
1934年生まれ。京都大学大学院博士課程修了。大阪大学教授、東亜大学学長、中教審会長など歴任。『歴史の真実と政治の正義』『21世紀の遠景』『山崎正和著作集』全12巻など著書多数。文化功労者。

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