「日本の農家」の日常を赤裸々に描く、痛快なエッセイ・マンガに、荒川弘『百姓貴族』がある。
作家の荒川弘(ひろむ)は、『鋼の錬金術師』と『銀の匙 Silver Spoon』という大ヒット作を2作つづけて放ち、いまや日本でも指折りの人気マンガ家である。
彼女は、「父方・母方ともに代々北海道開拓農民の血筋」に生まれ、「マンガ描きになる前は七年間北海道で農業に従事していた」(『百姓貴族』1巻)という経歴の持ち主。実家は酪農と畑作を手がける中規模農家(といっても、25ヘクタールもの広大な畑を有するという)で、自身も農業高校出身だ。北海道の農業高校を舞台にした青春マンガである『銀の匙 Silver Spoon』は、自らの実体験をベースにした作品なのだ。
その荒川には、『銀の匙 Silver Spoon』以前から描きつづけている、農業の世界を舞台にした作品がもう一つある。それが、今回取り上げる『百姓貴族』。荒川家の出来事を中心に、「農家エピソード」の数々を描いたエッセイ・マンガだ。
あらゆる業界が描かれてきた日本のマンガには、『GREEN〜農家のヨメになりたい〜』(二ノ宮知子)や『JA 〜女子によるアグリカルチャー〜』(鳴見なる+唐花見コウ)など、広義の農家マンガ・農業マンガも少なからずある。だが、それらの類似作と比べても、『百姓貴族』のリアリティと面白さは、作者の体験に基づいているだけに抜きん出ている。
「農家の常識は社会の非常識」――コミックス1巻のカバーそでに大書されたキャッチコピーである。誤解を招きかねない惹句だが、本作の面白さのツボを的確に捉えている。作中で披露される「北海道の農家エピソード」が、非農家の読者から見ると「作り話でしょ?」と言いたくなるほど破天荒であるため、常識をひっくり返されるような驚きが味わえるのだ。
たとえば、「鮭の遡上時期に台風で川が氾濫すると川岸の牧草畑に鮭が打ち上げられてしまう」ため、畑に鮭がビチビチ飛び跳ねている、というエピソード(1巻)などである。しかも、荒川弘の語り口が絶妙に笑いを誘うものなので、あまたあるエッセイ・マンガの中でも、抱腹絶倒度はかなり高い。
『百姓貴族』新書館
笑いながら「日本農業の現場」を知ることができるマンガ
全編笑いに包まれてはいるものの、本作の価値は笑いだけにあるのではない。これは、農業の現場を知り、日本農業の「いま」と「これから」を考えるうえで、多くの示唆を与えてくれるマンガなのである。
2015年10月、「TPP――環太平洋パートナーシップ協定」に日本も大筋合意し、環太平洋地域に巨大な自由貿易圏が生まれようとしている。そのことによって、日本農業もこれからグローバル化の荒波の中に突き進んでいくことになる。
日本のTPP参加については、賛成派と反対派が激しい議論の応酬を交わしてきた。そのどちらの立場にも共通する認識は、「TPPによって日本が大きく変わる」ということだ。農政も変わり、日本の「食と農」をめぐるありようも変わる。
大変化の時代を前にして、日本農業の「現場」を知っておくことは、誰にとっても有意義であろう。そのためのよきテキストになり得るのが、この『百姓貴族』なのだ。
たとえば、日本農業の「問題」としてよく挙げられる食料自給率の低さを、「ネタ」として取り上げた回がある(1巻7頭目)。そこで荒川は、カロリーベースで39%にまで下がった(2014年)日本の食料自給率について、“もしも北海道が独立したら、日本はどうなるのか?”という思考ゲームを展開してみせる。
いわく――。北海道に独立されると、日本の食料自給率は20%程度に下がる。逆に、北海道単独の食料自給率は約200%になる。さらに、北海道の農業を支える十勝地方だけに絞れば自給率は1000%を超え、これは四国4県の人口を十勝だけで養えるほどのスケールである、と……。
日本の食料自給率問題について考えるヒントを、この回は提供してくれる。TPP参加後は、食料自給率のさらなる低下が予測されている。それは日本にとって危険なことではないのか? ――たとえばそんなことを考えさせるのだ。
描かれているのは、食料自給率の問題だけではない。農業従事者の高齢化と後継者不足、「生産調整」をめぐる問題など、日本農業をめぐるさまざまな困難が、作品の随所に顔を出すのだ。また、「『和牛』と『国産牛』ってどう違うの?」などという、農業をめぐるウンチクもちりばめられている。
大いに笑って楽しみながら、日本農業について多くのことを学べる傑作エッセイ・マンガである。
コラム/「TPP後」は、『百姓貴族』でどう描かれるか?
コミックスの既刊3巻中には、TPPへの言及は皆無だ。むろん、「農業時事コミック」ではないから言及がなくてもよいのだが、日本農業の大画期が迫っている以上、今後、TPPが『百姓貴族』の作品世界に何らかの形で影響を与えそうだ。
「TPPに参加した場合、ニュージーランドや豪州から安い乳製品が輸入される。(中略)乳製品輸入が増える見込みのなかで、国内の酪農は高品質で安価な飲用牛乳の生産確保と、日本の嗜好にあったチーズの開発など、多様な戦略が求められているなか、ゾーニング規制を基本とした今の指定団体制度の見直しを急がなければならない」(本間正義著『農業問題――TPP後、農政はこう変わる』ちくま新書/2014年)
TPP参加は、牛乳・じゃがいも中心の酪農・畑作農家であるという荒川家にも、大きな変化をもたらすに違いない。
日本のTPP交渉それ自体は、民主党政権下の菅直人総理時代に始まったものだ。しかし、現在の安倍政権も、「アベノミクス」の成長戦略の一つに農業改革を位置づけ、「攻めの農林水産業」をキーワードに掲げている。TPP参加も、その「攻め」の柱の一つなのである。
よくも悪くも、これからは日本農業に大きく光が当てられる時期。『百姓貴族』の今後の展開にも要注目だ。
この文は、フリーライターの前原正之氏のもので公明新聞からの展開です。私の備忘録。