【真田丸】「表裏比興」は、敵味方相対の信念の戦いで鍛えられた昌幸の生き方。

 先日(5月2日)開催された上大津地区地区長会歓送迎会ではご挨拶の機会を頂きました。
 私は、5月2日が月曜日であり、その前日のNHK大河ドラマ「真田丸」をご覧の方も多いと思い、稀代の戦略士である真田昌幸についてお話しさせて頂きました。
 ドラマのタイトル真田丸は、大坂夏の陣の出城。真田一族の父昌幸(草苅正雄)と次男信重(幸村、堺雅人)f、石田三成の西軍へ。長男信幸(大泉洋)は徳川家康の東軍へ。兄弟を分けても真田一族を遺したとい戦略が父昌幸の真骨頂かもしれません。そして、信繁は「武名」を残し、信幸は「家名」を残しました。
 信繁は、徳川家康をあと一歩のところまで追いつめ敗れました。「判官贔屓」が武名を残したとも言われますが、大坂夏の陣の手兵5000人は主従関係になく、信繁の男たちの心を掴む魅力で一糸乱れぬ統制の戦いであったいわれます。
 さて、父昌幸について、石田三成はこう評したといわれます。「表裏比興(ひょうりひきょう)」と。「表裏」はね「相対」であり、ある時は「表」ある時は「裏」である。そして、「比興」は、「表」が「表」でなく「裏」であると。それは「卑怯」に通ずるとも言ったそうです。
 昌幸は、相対的に物事を判断する能力に長けていました。そうでなければ、上杉景勝、北条氏直、徳川家康と対峙できなかった、生き残れなかったと思わざるおえません。それは、卑怯ではないと思うのです。
 そして、昌幸が何よりも守ろうとしていたものが、領民であり、一族であり、家族であったのは明白であるならば、「相対」の先に「絶対」の新年があったと思えるのです。
 とお話ししました。
 

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