今日の読売新聞朝刊の一面「地球を読む」の中曽根康弘元首相の論考「国家なき市民主義の限界~菅首相退陣」は、菅首相の言う市民主義を検証して過たない興味深い内容と感じます。
菅政権とは、「過去も未来もない政権」と位置づけ、菅首相の唱える市民主義とは、私たちの周辺にある市民生活を中心とした政権思想で、歴史や文化の伝統を背負った過去や、目標やりそうを持った未来への挑戦に欠けた政治思想と定義している。
それは、国としての歴史や文化の連続性がないという弱点があるとも記している。つまり、菅総理の国家論なき市民主義が限界であったともしている。
その後の論考は、読売新聞をお読み下さい。
最後に、首相は、一刻の歴史や文化を背負った存在なのだと論じています。
この論考に賛同するつもりはありませんが、「市民主義」がこのような形で葬られることには寂しい気持ちです。その罪が菅総理にあります。
市民とは、地域に存在する人々を表したものではなく、権力に因らず頼らず市井に生き抜く一人ひとりの存在の集合だと思います。価値観が多様化し流動化している中で、政治の目的をどこに当てていくのかと問われれば、大多数を占める力なき市民と言うべきです。
ですから、市民を踏み台にする市民主義は認められません。市民そのものが、政治であるべきと考えます。
歴史と文化は、エリートが創ったものではなく、市民の賛同を得る市民の知恵の発露だと思います。歴史と文化を知らずして、市民を真に納得させることもできません。それが菅内閣でした。
今こそ新たな歴史観と文化観を創るべきです。震災後とは、歴史創造、文化創造のチャンスと捉えることができましょう。
歴史との、後代の審判を仰ぐものです。歴史に学ぶとは、明日の創造です。今日の結果とは責任の実態です。歴史に生き、文化に交わる生き方をして参りたいと思います。
朝顔の花が咲きました。たった一粒の種が見事に咲いてくれました。咲いてくれて有難いなあと感謝します。