市民相談をお受けする中で、深刻で悩ましい事柄に遭遇します。
特に、父母の相続財産を巡るトラブルの中で、成年後見人のあり方も問われてきているように思います。
高齢化の中で、また人の人生の中で、自分自身を含めて何時如何なる状況に陥るかは不明です。それは判断能力の喪失という場合もありますし、判断能力はあるけれども自己表現が不能という場合もあります。
その意味で、連綿たる資産の継承は、必ずしも想定の範囲とはならないと言えると考えます。誰もが、将来を鑑み憂いているわけで、将来の禍根を残さない方法を模索しています。しかし、実行することは難いと言えましょう。
時間を後戻りすることはできません。すべては、財産の所有者の意思の問題であるにも関わらず、意思の実効ができなくなる事が往々にして存在します。その行き先は、子供たちの不和であり、兄弟姉妹の絆の破たんです。
本来、行為能力を失い、意思の表現能力を失った場合の本人の行為実行は、後見人により代理実行されるものです。しかし、その後見人選定すら争われることとなれば、事の善悪や成否は全く進展しません。
財産の使途についての争いは(相続の前なので)、子供たちの親の取り合いのようにも見える後見人争奪戦になるかもしれません。それが現実なのかもしれません。
私自身は、一つだけ提案しています。
それは、行為能力に瑕疵ある父母とは、病気療養中の父母であるに違いありません。だからこそ、その父母の健康と長寿を誰が真剣に願っているのか。父母を本当に思う気持ちこそが、嘘偽りない親子の真実が問われているとお話し、まず父母の安心のための配慮を提案しています。
相続の原点とは、連綿たる親子の情であり、縁への感謝であると思います。失うと得るとは表裏一体です。真実の情に迫ることこそが、親子の絆の結果として何かを相続けいしょうするものと考えます。