【雑記】保守への回帰は本物か。「地域に無償の奉仕こそが保守」と穏健な保守が言う。

 昨年の衆議院選挙で公明党は、全国多くの選挙区で、自民党と連携して小選挙区は「自民の〇〇候補」、比例は「公明党」というバーターの選挙戦を展開しました。
 その結果は、自公連立であり、公明党の9議席完勝と小選挙区と比例12議席獲得に繋がりました。
 この自公連携の交渉を、ある議員が「保守対策」と言っていたことが思い出されます。それは、言い換えれば「自民党対策」に他ならないと考えますが、なぜ「自民」ではなく「保守」と言ったのかを考えることがあります。 
 そして、選挙の結果を受けて、私自身は、自民の勝利というより、保守の勝利という感を受けました。
 「保守」対「革新」は、小泉政権により、「改革か、抵抗か」に変わりました。自民党は、民主党により政権を奪われて、「保守」に回帰したのでしょうか。私は、回帰したかどうかはわからないものの自民党を支える、単に自民党を支持し投票する以上の保守層の幅広さとそこの深さを感じてなりません。
 選挙の側面から見れば、民主党を見限った方々が自民党に回帰したと言えるでしょう。しかし、この自民から民主へ、そして自民へ投票動向を変化させた層こそが、底深い保守層ではないかと思うのです。
 先日の日刊紙の朝刊で、自民党の加藤紘一元幹事長が「本来の保守の概念」を、「いまは壊れてしまったが、かつての日本は大変な助け合いの社会だったのであり、保守とはすなわち『地域コミュニティーにおける無償の公共奉仕』のことである」と述べたと掲載していました。これは、穏健な保守であると。
 私は、この説をなるほどと思いながら、やはり安倍政権の保守とは違うと思い、かつ保守の幅広さを再び感じます。
 保守対策は、字の如く、守り保つことを指し、それは旧来の緩やかな慣習の体積のようなものかもしれません。保守を理解し、味方につけていく努力は、「地域の人材育成のシステム」と「過去への理解と一定の踏襲」、そして「けっして効率的でない柔らかな集団への参加」に他ならないと考えます。
 かつて、「大衆は変化を求めない」と教えられたことがありますが、本質的には、社会は常に変化していて、変化の挑戦に私たちは応戦していかなくてはなりません。
 ここで、ふと思います。政治は、一歩遅れてやってくるのではないかと。いや、理念と先見のリーダーシップが政治だと思い直して見たいと思います。