公明党の大先輩である神崎武法さんの記事を興味深く拝読しました。
私自身は、神崎さんと直接お話をする機会もなく、近くでお目にかかったのも一度きりですから、神崎代表以降の公明党議員の一人となります。
いわゆる55年体制が崩壊するときに政治の中枢で、野党公明党から与党公明党への脱皮を如何なる時代背景のもとでどのように判断されたかはら日本の政治史の1ページではないでしょうか。
論文ではなく、インタビューであるからこそ分かりえる記事であったと思います。
最後に、「縮小する社会でどう活力を維持するのか」と現在の政治に期待を寄せられていることが印象深く思われます。この記事を静かに理解したいと思います。
公明党元代表・神崎武法(1)後に本当の選挙をやるとは 2018.01.08
〈衆参両院で改憲勢力が憲法改正の発議に必要な3分の2超を占め、自民党と連立を組む公明党に注目が集まっている〉
私は国会で合意形成ができるかどうかが焦点になると思います。党代表を辞めた直後の記者会見でも、「自公の将来的な課題は憲法改正になる」と指摘しました。憲法改正は国民の理解を得て進めるべきですから、与党も野党も含めて、しっかり合意をまとめ上げることに全力を尽くしてほしいんです。
〈水と油のように思われた自公両党も風雪に耐えてきた。礎を築いた元代表は小中高で生徒会長になるなど、周囲から自然と一目置かれる存在〉
当時にしては背が高く、体格が良かったからでしょうか。中学では転校して1年後に生徒会長に選ばれました。まさか後に自分が本当の選挙をやるとは思いませんでした。
〈家は貧しかった〉
父親は軍属でトラックの修理などをする技術者でした。復員してから千葉の引き揚げ者住宅に住みました。家族が12畳1間で暮らした時期もあって、子供のころは近所の社宅で庭先からプロレス中継を観せてもらうのが楽しみでした。家計を助けたいと同級生の家に窓ガラスを拭いたり、年齢を偽って中学からゴルフ場でキャディーをしたりもしました。
〈千葉高では意外な理由で演劇部に所属〉
好きな女の子が演劇部に入ったから、ふらふらっと入っちゃった。白ユリのような女性でしたけれども仲間と一緒におしゃべりする程度で…。勉強は数学が得意だったんですが、ちょうど60年安保闘争があって、やっぱり指導者がしっかりしないといけないんじゃないか、と。法学部のほうが選択肢が増えると考えて、文系に方針を変えたんです。
〈東大3年生で難関の司法試験に挑戦する〉
東大では当時、2年生の途中までは教養科目が中心で法律に関する科目はほとんどありませんでした。合格した先輩に勉強法を聞くと、「それぞれの法律についての基本書を6~8回も読めば大体頭に入るから合格できる」と言う。言われた通り一式買い求め、猛烈に6回読みました。落ちたらもう受けまいと思っていたんだけど、たまたま受かった。当時は創価学会員の東大生で3年生で合格した人はいなかったので、東大新聞が取材に来ました。「創価学生」が合格したが、彼らはいったい何を考えているのか-というような記事になっていましたね。
学会に入ったのは中学2年のときでした。母親が最初に入り、家庭の雰囲気が明るく変わってきたので父も私も入ったんです。司法試験に合格し、大学でやることがなくなったと思ったら、学会の池田大作会長(当時)から「仏教哲学大辞典」の編纂(へんさん)委員になるよう任命されましてね。今度は学会本部で仏教哲学の猛烈な勉強を始めました。大学生活は3年生でほぼ終わりでした。
公明党元代表・神崎武法(2)大先輩が「大きな嘘はつくな」
〈司法修習を終えて検事に任官。昭和51年の北海道庁爆破事件といった爆弾テロ事件を多く担当した。45年に発生したよど号ハイジャック事件の関連捜査も行った〉
集中力はあるんで短期で猛烈に頭に入るんだけど忘れるのも早くて、司法研修所で苦労しました。特に民事関係ね。法律が血や肉になってなかったんですね。テロ事件の関係者に話を聞くのは大変でした。じっくり腰を据えて、雑談しながら徐々にほぐしていくしかない。それでしゃべり出すこともあるし、しゃべらないこともある。よど号事件の奥平純三容疑者を東京地検で調べたこともありました。彼は52年のダッカ日航機ハイジャック事件で日本赤軍に奪還されてしまった。当時は外務省に出向中で、複雑な思いでニュースを見たのを覚えています。
検事は事件ごとにその分野の専門家にならないといけないんです。爆発しない爆弾の供述をされては意味がないでしょう。ヤクザ相手なら拳銃のこと、花札賭博のことなど知識を得て、何でも分かっているぞという顔をして臨む。沖縄では、道路陥没の事件を担当したので土圧の勉強をしました。この経験は後に政治家になって役に立ちました。
変わった案件では、東京地検時代の「日活ロマンポルノ事件」に関わった女優さんを調べたこともあります。話を聞いているうちに女優さんから「あんた、気に入った。今度一緒に飲みましょうよ」と言われたこともあります。「いや、そういうわけにはいきません」と丁重にお断りしましたけどもね。
〈検事として経験を積んだ38歳のとき、公明党から国政進出を打診される〉
公明党から昭和56年12月に衆院選に出ないかと打診を受けました。当時、公明党は野党でしたから、検察に迷惑がかからないかと懸念しました。
検事になるときの面接官で、当時最高検の次長検事の伊藤栄樹さんにご相談に行ったんですよ。ご自宅にうかがってみると、待ち構えており、「おう、面白いじゃないか。やったらいいじゃないか」とバンと背中を押してくれた。伊藤さんは後に検事総長になった方ですが、「政治家になると、小さな嘘をつかざるをえないときがあるかもしれないが、大きな嘘はつくな」とアドバイスをいただきました。それから「勉強しろ」と。「各省庁が出している白書をよく読むことが大事だ。省庁が何を考えているかよく分かる。一通り読め」といわれました。
〈一方で弱ったことも起きた〉
どの選挙区から出るか決まってもいないうちに、共同通信が「公明党の委員長候補の衆院選出馬が内定した」という記事を流したんですよ。私の名前が出ていました。もう、びっくりしました。
後で聞いたら、伊藤さんが「竹入(義勝委員長)に会って『神崎を出馬させるからには必ず将来は委員長にしてくれるんだな』と聞いたら『大丈夫だ』と答えた。確約を取った」というようなことで、親しい記者にリークしちゃったみたいなんです。
心配して聞いてくれたのかどうか分からないけれど、こっちはありがた迷惑で…。だって、新しい分野に飛び込んで、1年生議員として先輩の中でもまれながらやっていかなければならないのにね、当選する前から委員長候補だなんていわれては党内でもいい感じはしないでしょう。あれには困りましたね。
公明党元代表・神崎武法(3) 腹をくくった「森降ろし」
〈昭和58年12月の衆院選で旧福岡1区に立候補しトップ当選。3期目で国会対策委員長に就く〉
国対委員長になってすぐ、平成2年の8月にイラクのクウェート侵攻が起きました。米国を中心とする多国籍軍が反撃するという流れになり、日本は90億ドルの追加支援をしましたが、やっぱり汗を流して貢献することが必要ということになったんです。
〈公明党は安全保障に関する党内議論を先行させていた。きっかけは議席を減らした元年の参院選だった〉
冷戦が終わり、国際情勢は変化しており、今までのように「何でも反対、反対」と言っているだけではすまない。野党としても責任ある対応をとる必要がある-と、市川(雄一書記長)さんが中心となって徹底的に話し合っていました。
〈政権に参画する機運も生まれていた〉
公明党が結党時から掲げる党是は「福祉の党」と「日本の柱」と2つあります。日本の柱というのは、日本の政治で責任を果たすということです。衆参のねじれは常態化していました。それで政治を安定させ、政策を実現するために公明党が連立の中に入るのも選択肢の一つではないかということになっていったんです。最初に連立を組んだのは細川護煕政権でした。自民党に代わる新しい政権、勢力を作ろうと参加したんですが、失敗に終わりました。
6年に新進党の結党に加わりましたが、わずか3年で解党しました。公明党としては新進党にはかけていたんです。公明党を解党してまで合流したんですから。新進党の失敗で、やっぱり公明党を作り直して頑張るしかないということになりました。
自民党との連立の話を始めたのは小渕恵三政権のときです。ただ「今まで反自民でやってきた。すぐ自公というわけにはいかない」と何度も伝えました。空気を醸成するのに1年くらいかかりました。
〈12年に自民党と連立を組んでいた自由党が離脱。小渕首相が倒れた〉
4月ですね。3党首会談をすることになりました。激しくやり合い、ついに小渕さんと小沢(一郎自由党党首。現同党代表)さんと2人きりで話すことになった。20分くらいで出てきて、自由党との連立解消を発表された。2人が何を話したのか今も分かりません。小渕さんは私に、「これまで公明党は誠心誠意やってくれた。これからもよろしく」と言われました。それが私の聞いた最後の言葉でした。あんな展開になるとは思いもよりませんでした。
〈後継の森喜朗政権は密室で決まったとされ、当初から支持率は低迷していた〉
13年夏に参院選を控えており、また負けるようなことがあってはいけないと思いました。自民党内も危機感は共有しているのに、誰も動こうとしない。仕方なく、私が表に出て「森降ろし」の流れを作るしかないと思いました。
〈13年2月にハワイ沖で教育実習船が米潜水艦に衝突され、沈没する「えひめ丸」事件が発生〉
森首相の危機管理対応を批判し、退陣すべきだという発信を始めました。「森降ろし」の流れを加速させようと連日、記者懇でも言いました。産経新聞にも随分書いていただき、自民党内も呼応する動きが出てきて、予算成立後に辞任されました。森さんが辞めなければこっちが辞めるしかないと腹をくくってやったことでした。
公明党元代表・神崎武法(4) 撃たれたら…ヘリでサマワ入り
〈自民党は平成13年4月の総裁選で、小泉純一郎元郵政相を選出し、小泉政権が発足する〉
私は当初、橋本龍太郎元首相が再登板されると思っていました。
小泉さんとの連立は苦労しました。まず「連立合意」を結ばない、「この指止まれ」でやりたいというんですから。政策協定も合意もないまま、首相指名選挙で他党の党首の名前を書くことなんてできません。押し合いへし合いして、森(喜朗元首相)さんの尽力もあって、連立合意をまとめることができたので、私たちも小泉さんの名前を書くことができたんですね。
小泉さんは、公明党は平成研(現額賀派)と仲がいいと、うさん臭く思っていたのかもしれません。ところが、いざ連立を組んでみると「公明党は選挙でもよくやってくれている」ということになったし、政策も何でも互いに遠慮なく主張すべきは主張して、真剣に調整した。その意味で、自公の盤石な基盤は小泉時代にできたといえると思います。
〈政府与党は16年、イラク・サマワに復興支援のため陸上自衛隊の派遣を決めた〉
日本が戦争をしに行くのではなく、戦後の復興のために具体的な行動で貢献できるのかというのが問われていました。政府与党として判断する以上、公明党としても応えなければいけない。とはいえ、党内も支持者も、自衛隊を海外に派遣することに反対という空気が結構強かったんですよ。だから現地に行って肌身で安全であることを確認するしかない。もし私が銃で撃たれたら自衛隊の派遣をやめればいい。判断の根拠が必要だと考えたのです。
〈同行者に「死ぬときは一緒だね」と話した〉
それはもう、いつどうなるかわからないから(笑)。外務省はイラク訪問に反対でした。与党幹部が入ると武装勢力の残党に狙われると懸念していました。ですからクウェートに行き、現地から米大使館などとイラク入りの最終調整をやりました。
イラクへは米国の輸送機で入り、オランダのヘリコプターでサマワに向かいました。ヘリは川の上、すれすれを蛇行しながら飛ぶんですよ。陸地の上空を飛ぶと武装勢力にロケット砲で狙われるかもしれないからというのです。反撃できるようにドアは開けっ放しで、兵士が機銃を構えていて、風がびゅうびゅう吹き込んでくる。乗っていたのは30分くらいでしたが、大変な思いでした。しかし、サマワ市に入ってみると、情勢は非常に落ち着いていました。
帰国後、自分の体験を党に報告して派遣容認の判断をしました。やっぱり「私は行って見てきたんです」というのは大きいんですね。
〈党の判断に対し、支持団体の創価学会の反応はどうだったのか〉
学会の幹部の皆さんは、党がそういう判断をするならやむを得ないという判断でした。われわれ党側は、政治の現場にいます。情報も日常的に集めているし、政治判断には自分たちが責任を持たなければならないと考えています。同時に支持者の皆さんの気持ちを受け止めて反映し、最終的にはまとめた内容をご理解いただくというプロセスが大事です。
ですから、決断後は全議員で手分けをして全国を説明して回りました。その結果もあってでしょうか、翌年の16年の参院選も無事、乗り越えられました。
公明党元代表・神崎武法(5) 「いかんざき」で有名に
〈小泉純一郎首相が平成17年8月、郵政民営化で衆院解散を決断する〉
小泉さんとは5年の付き合いで、結果はどうあれ決めたことはやる人なので、解散は止められないと思いました。支持団体も国会審議の経緯を見ていましたから分かっていて、「ただし日程は延ばしてもらってくれ」と要望されました。うちはある程度、準備に時間をかけないと選挙はできない。直前の7月に都議選もあって、組織も大変だったんですよ。
当初、小泉さんは渋っていて、何とか説得して1週間、投開票日を遅らせてもらいました。こちらはおかげで態勢作りができたんですが、自民党も刺客を立てたり、いろいろ手間取っていたので、選挙後、当の小泉さんから「あれで助かったよ」と言われましたね。小泉さんは勝負勘というか、度胸のある人ですが、巻き込まれたほうは本当にたまったもんじゃなかった(笑)。
〈党代表時代には、ダジャレを使ったユニークな政党コマーシャルに出演し、話題になった〉
選挙戦に関しての注文には何でも応えることにしていましたから。あれは党の青年局などが中心に企画してくれたんですが、賄賂とか裏取引を許さないという政治に対する期待を分かりやすく表現したというか…。でも、うちの女房が自民党の小泉進次郎さんから「あれこそ今でも僕の政治信条です」と言われたっていうんですね。
街で声をかけられたり、歌舞伎の中村勘三郎さんが「あの『そうはいかんざき!』の神崎さんか」と大笑いしながら、見得を切ってくれたりしたこともありました。ウケましたよね。与党効果もあって、今では創価学会の関係者以外で公明党を応援してくれる個人の方、企業の方も増えています。
〈自民、公明両党は21年に下野したが、第2次安倍晋三政権でともに政権与党に返り咲いた〉
自民党は山の上から俯瞰(ふかん)するような、全体感をつかむのは得意。一方で、公明党は下から積み上げていくタイプです。お互いに持っている長所を生かして政権運営できているので、いい組み合わせだと思います。今後もうまくいけば連立は続くし、互いに短所ばかりが目立つようになれば難しくなる。両党とも切磋琢磨(せっさたくま)していかないといけないですね。希望の党のように他に保守系の政党もできているし、世論の流れで政権を委ねるのは自公でなくてもいいじゃないかということになるかもしれませんし。
安倍さんはよく話を聞いてくれる人なので、公明党にも配慮してくれていると思います。公明党の対応といえば、27年に安全保障関連法でも話題になりました。現執行部の皆さんもだいぶ悩んだと思うけど、従来の自衛権をめぐる考え方と本質的に変わりはないということで党として賛成を決めたと思います。一方で、党内のいろいろな議論がもっともっと表に出てきてもいいかもしれませんね。それぞれ執行部によって、やり方は異なるでしょうけども。
私たちの時代は人口が増えていくことを前提に政治が行われてきました。しかし、高齢化が進み、人口減少社会に突入してしまいました。縮小する社会でどう活力を維持するか。今までにない発想でどんどん挑戦する必要がある。若い人たちは大変だと思いますけど、期待したいですね。