1月20日に米大統領に就任するトランプ氏の記者会会見の模様が報道され、日本のメディアも多くの評論を展開しています。
トランプ氏の言辞に嫌悪する人もいるけれども、喝采する支持者がいることも容易に想像できます。
政治は「言葉」であるとすれば、言葉の持つ力の表裏を見極めて、右往左往しない受け手の芯が必要ではないかと思います。
そんなことを考えていましたら、今朝の毎日新聞に、前大阪市長の橋下徹氏のインタビューが掲載されていました。もしかしたら日本におけるトランプ現象の先達かもしれません。
物議を醸しだす言辞も、だからこそ国民に訴える力を持つとすれば、それはポピュリズムでない。民主主義に「絶対正しい政治」はない。結果の多数こそ民主主義である。が、ある種のリズムを持って語られています。
その抜粋を備忘録として掲載したいと思います。
僕は今年のメディアや知識層におけるキーワードは「ポピュリズム」になると思っています。
「ポピュリズム」を「大衆迎合主義」という悪い意味で用いたとしても、それは結局民主政治そのものでしょ。メディアや知識人は政治家に対して国民の声を聴けと言う。で、国民に耳を傾けると今度は大衆迎合主義と言う。どっちやねん!と。
国民の多数意思で政治をやっていくのが民主政治です。その場合、国民を徹底的に信じなければなりません。しかし国民の声も絶対的に正しいものではない。だからこそ修正を繰り返しながら正しいものに近づけていく姿勢が必要です。一部の知識人が主導するのではなく、国民多数の意思で修正していく。良くなるも悪くなるも全て国民次第。ゆえにポピュリズムが全て悪なのではなく、良いポピュリズムを目指さなければならない。
ところがメディアも知識人も昨今、ポピュリズムというワード(言葉)を、自分の考えと異なる政治への批判の言葉として使っていますよね。政治の中身の分析、評価をすることなく。ポピュリズムを大衆迎合主義という意味で使う場合には、国民をバカにしている。
ポピュリズムを悪とするなら、それと反対側にある「専制エリート政治」の方がいいのか。ポピュリズム、民主政治にはいろんな問題があり、ヒトラーを例に「民主政治は独裁政治につながる」という批判もある。しかし、専制エリート政治を振り返ると、旧ソ連のスターリン、北朝鮮の金一家、アフリカの独裁体制、そして中国と、これらの体制の方がはるかに弊害がある。ポピュリズムの方がマシであることは間違いないでしょう。そもそも民主政治においては「絶対的に正しい政治」なんて想定しちゃいけないんですよ。
もちろん政治を批判することも民主政治にとって重要ですが、多くの国民の支持を取り付ける行為そのものをポピュリズムと批判するなら、それは民主政治の否定です。
多くの国民の不平不満をちゃんとすくい上げることができなかった政治が、ルールに基づいた国民の投票という力によって変えられたということでしょう。オバマ大統領の政治で足りなかったところや不満のあるところに、「選挙」という平和的で穏健なやり方で国民が「ノー」を突きつけた。国家権力はものすごい力を持っていて、やろうと思えば武力で国民をねじ伏せることができるのに、民主政治ではどれほどの大国でも国民が選挙で現政治権力を倒せる。すごいことですよ。極めて健全な民主政治の結果だと思います。
トランプ氏は過激な発言をしながら、批判を受けることでメッセージがメディアに乗っかることを考えていたんでしょう。
もちろん行き過ぎた発言は批判すべきですが、今回の大統領選ではメディアも知識層もトランプ氏のメッセージの表現方法への批判に終始していました。下品な言葉尻だけを捉えて大統領失格者とレッテルを貼って批判することは非常に危険です。それは逆に、きれいごとの言葉尻だけで政治家を大称賛することにつながるからです。これこそ大衆扇動じゃないでしょうかね。
メディアに乗っけるための修飾語をはぎ取ってメッセージの核となっている政治的問題意識を明らかにする。そして政治家と国民の問題意識が合致しているのか、さらにその問題を解決するための対処方法の実現可能性を検証する。また選挙である以上、対立候補との比較で「どちらがましか」という検証が最も重要です。
こういう作業を本来メディアや知識層がこなして国民に情報提供しなければならない。ところが「ポピュリズム」「差別主義者」「排斥主義者」などレッテル貼りでは、民主政治は機能しない。
政治家がメディアに乗っけるために過激な発言をすることには批判も多いですが、日本でも「保育園落ちた日本死ね」という言葉で待機児童問題という有権者の問題意識がクローズアップされ、現実の政治が動きました。結局、どの言葉がいいか悪いかは、極めて主観的なもので趣味嗜好(しこう)のレベルですよ。