「ポスト真実」なる言葉が、オックスフォード英語辞典の2016年の世界の言葉として選ばれたそうです。
この場合、「ポスト」の意味は、「以後」「あと」を指し、「真実の後に、何があるのか、何が起ころうとしているか」を表していると思われます。
下記のコラムを、私はあまり好きではありません。このコラムを書く45氏も決してすっきりした気持ちではないのではないかと思っています。でも、もしかしたら世の中の有体はこのように感じるのかなと思いここに留めてみたいと思いました。「政治は勝たなければならない。そのためには感情を左右しろ」は、選挙の話であり、政治ではないと思います。
2016-11-26
post-truth(ポスト真実)を笑って見下していたら未来はない。
先日、オックスフォード英語辞書が、2016年世界の今年の言葉として「post-truth(ポスト真実)」を選んだそうです。
オックスフォード辞書によるとこの単語は、客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す形容詞。今年6月のブレグジット(英国の欧州連合離脱)と11月の米大統領選を反映した選択だという。
post-truth(ポスト真実)を支える人々に「真実でない」と言っても意味はない
この言葉が表現するような出来事は、今年のアメリカ大統領選挙やイギリスのEU離脱決定などのプロセスにおいて顕著に見られましたが(とは言え、これが結果に対する全ての要因とは言えませんが)、このような傾向は我が国においても以前から見られているもののように思えます*1。
「post-truth(ポスト真実)」は、知性あるいは理性を重んじる人々からすれば厄介で苦々しいものかも知れません。「反知性主義」「ポピュリズム」など、同じようにその言葉自体に批判的意味合いを持たせた定義でこれらの現象を説明しようとする試みも多数あります。しかしながら、この「post-truth(ポスト真実)」を支えている(ように見える)人々は、「真実だと信じている」または「真実であるかどうかに対する関心が薄い」ので、この人々に対して「真実でない」と言ったところで殆ど意味はありません。
もちろん、私自身も客観的事実、事実の真実性に対する不誠実な態度や無関心な態度を憎んでいるつもりですが、一方である事実が真実であるかどうかを判断することはそう容易なことでもありません。特に日々の生活に追われ、多様な情報にアクセスして判断する余力(意欲)のない人々*2にとっては、「post-truth(ポスト真実)」と指摘されるような事柄以外でも、日々接する情報の真偽を確かめることは容易なことではないかも知れません。どこにでも誤りが混在している可能性がありますし、特に政治の世界では「post-truth(ポスト真実)」という言葉を待たずして以前から嘘が真実のように語られることは多々あります*3。また何かにすがりたいと思っている人は、そもそも耳触りのよい嘘の方を信じたいのかも知れません。
全ての人間は誤りから完全に自由であることは出来ないでしょうし、真実に辿り着くためにどのような努力が必要なのかも問題になるでしょう。しかし、それよりも今回は「post-truth(ポスト真実)」のうち(オックスフォード辞書の定義に従って言うと)「感情的な訴え」の方に関心を向けたいと思います。
感情であれ理性であれ、大切なことは結果、勝つことではないのか。
感情に訴えられることによって、ほんの一部の人だけではなく、比較的多くの人が反応するのには、それぞれ異なる性質のものを含んでいるとしても、その感情が多くの人たちに共有されるような共通項を持っているからでしょう。大ざっぱに言えばその多くは、社会における不公平感や、切羽詰まった貧困、自分たちの暮らし*4が脅かされることに対する恐怖などのネガティブな感情です。
例えば、地方公務員の一部に勤務態度・状況が非常に悪いにも拘わらず高給を取っている者がいれば、日々の生活に追われる納税者からすれば著しい不公平感を感じ懲罰感情が生じるでしょう。実際そのような公務員がいれば、懲罰あるいは罷免の対象になるべきでしょう。ただ、この感情に訴えて、この一部の公務員を殊更に特定の属性*5を持つ公務員に一般化すれば、人々はその属性を持つ公務員はすべて勤務態度が悪いのだろうと思い込んでしまうかも知れません。
また、ある宗教を信仰すると称する人々がテロを起こし、直接その被害を受けたり、その被害に怯える人々は、テロリストの活動を抑止し、テロリストを捕まえてほしいと願うでしょう。ただ、この恐怖の感情に訴えて、誰かが、ある宗教を信仰しているだけでテロリストたることを疑うに十分だと声高に叫べば、人々はその宗教を信じている人だというだけでその人たちを拒否し、白眼視し、追い出そうとするかも知れません。
あるいは、グローバリズムを推し進め波に乗り稼ぐ人々が、よりこのグローバル化を進めてより稼ごうとしているとき、このグローバリズムの恩恵に預かることもなく、むしろその日陰の部分によって暮らしを圧迫されている人々からすれば、反グローバリズムの感情を抱くのは自然なことのように見えます。政府がグローバリストの下僕となる一方で守るべき自国の国民に関心を持たなくなっているとして、自分たちをまるで棄民のように感じることもあるでしょう。これに対する絶望感や怒りの感情に訴えかえれば、自国の価値を他国よりも大きく上に置いたり、特定の他国を必要以上に敵視したり、あるいは自国内における「生粋の国民」のような幻想によって自分たちと異なる属性を持つ国民に対する敵意を煽ることができるかも知れません*6それが反グローバリズムとして的外れな方向だとしても関係ありません。
「感情的な訴え」が上記のように、人々が自然に抱く感情を利用して、事実を歪めたり、一部を全体に不当に拡大したり、あるいは根拠のない妄動を煽る可能性はもちろん好ましくないことでしょう。事実無根の事柄を根拠にしたり、もはや妄動としか呼べないような言説によって行動する人々を見て、「馬鹿だ」「かわいそうな人々だ」「苦々しい」と思う人もいるでしょう。
でも、そう思っているうちに、社会には「post-truth(ポスト真実)」がはびこってしまいました。オルタナ右翼と呼ばれるような人々だけではありません。より広い範囲にこれは拡がっているように思えます*7。なぜなのでしょうか。みんなが馬鹿ばっかりだから?(そんなことあり得ないでしょう?)
この状況をどうすれば良いのでしょう。真偽について自分でしっかり確かめようともしないで、あるいは確かめる必要性すら認めないで大声を上げる人々に対して、「君たち、もっと理性を働かせたたまえよ」と説いてまわるのでしょうか。
もちろん、地道に真実を明らかにし、それを伝えていくことは絶対に必要なことだろうと思います。
しかし、感情ではなく、知性に基づいて考えよう、理性を働かせて真実をつかもう、と呼びかけたところであまり意味があるとは思えません。「post-truth(ポスト真実)」の只中にいる人にとって大事なのは「感情」です。
「感情にのみ従って行動するなんて馬鹿のやることだ。」という人もいるでしょうが、かといって感情なしの理性によって行動できる人もいないのではないでしょうか。人間である以上、好悪の感情や、哀しみ、怒りなどの感情が行動の動機になることは当然のことでしょう。日々の暮らしの中で多くの人はそのような行動をとることも少なくないでしょうし、それで特別不都合に見舞われることがないことも多いでしょう。
そもそも考えてみれば、「感情的な訴え」に反応した人々が集結し、それがパワーとなって行われる政治によって、この人々の思い通りの結果を招くのであれば、それを「post-truth(ポスト真実)」と呼ぼうと、「ポピュリズム」と呼ぼうと、「反知性主義」と呼ぼうと、別に構わないでしょう。私たち全員が学者なわけではないし、結果オーライです。
しかも、一見「理性的」に見えてお上品な人々が、実は自分の属するごく一部の既得権益のために行動しているのではないかという疑念が蔓延し、その疑念がそう的外れでない可能性があるとしたら、理性的であること、注意深く真実を見極めることの意味を見いだせないということにもあるかも知れません(実はこのような欺瞞こそが「post-truth(ポスト真実)」を蔓延させる決定的要因になっているのではないかとすら思えます*8。)。であれば、「post-truth(ポスト真実)」「ポピュリズム」「反知性主義」などの言葉で批判されようと、自分たちの怒りや不満を晴らすために叫ぶことを否定する必要なんかありません。
ただしかし、集結させられた人々のパワーはただ利用され消費されるだけであって、最終的には彼らの感情を満たす、怒りを収めたり、恐怖を鎮めたりする結果にはならないだろう、そういう予測があるからこそ、「post-truth(ポスト真実)」に対して危惧を抱くのではないでしょうか。真実に潔癖であるべきだという考えではなく*9、結果が不当だろうという予測において危惧を抱くのでしょう?
大切なのは結果です。
特に政治の世界においては、そこに至る現象を何と呼ぼうと、政治の結果が厳然とあらわれます。「○○はお前たちの生活を破壊する敵だ。○○を駆逐してやる。」と叫ぶ誰かが選挙に勝利すれば、「○○」は窮地に追いやられるかも知れません。また、「○○」が本当の敵ではないので、○○が駆逐されたとしても投票した人々の生活は一向に良くならないでしょう。それどころか、○○を駆逐しているだけだと思ったら投票した自分たちすら駆逐されてしまうかも知れません。
政治は闘争です。闘いなのだから、勝たなければいけません。そうしなければ自分たちの望まない未来が来ます。嘘に屈服する未来です。